平安時代に入ると「短甲」(たんこう)、「挂甲」(けいこう)に代わって「大鎧」(おおよろい)が登場します。その理由は、戦い方の変化。騎馬武者が戦いやすいよう改良が加えられた結果、鎧は日本独自の進化を遂げていきました。平安時代前期から江戸時代までの大鎧についてご紹介します。
平安時代から鎌倉時代にかけて、主流となっていた戦い方が「騎射戦」(きしゃせん)です。これは、1対1で向き合った騎馬武者がお互いに名乗り合って弓を引き、すれ違いざまに矢で射るという戦い方。この形式の戦いが盛んに行なわれたことで、それまでの短甲や挂甲などの甲冑とは違うことが要求されるようになります。
馬上において、いかに動きやすいか、つまり、弓を引く動作がスムーズにできること、相手が放つ矢に対する防御に優れていることが重要視されるようになったのです。
具体的には、肩を守るための「袖」(そで)、脇の隙間を守るための「脇楯」(わいだて)、胸部を守るための「鳩尾板」(きゅうびのいた)、「栴檀板」(せんだんのいた)、「吹返」(ふきかえし)などで矢を弾き返す工夫が施された「兜」、隙間を少なくして腰から下を守る「草摺」(くさずり)などが大鎧の特徴に挙げられます。
古墳時代まで実戦で用いられていた短甲や挂甲は、大陸の影響を受けた甲冑。これらが大鎧という「日本式甲冑」に変化していった背景には、文化的な影響もありました。すなわち、調和の取れた日本的な美を重んじる「国風文化」(こくふうぶんか)の下、仏具制作の手法を甲冑の制作に応用するなど、独自の発展を遂げていったのです。その結果生まれたのが、大鎧でした。
現存する最古の大鎧は、愛媛県の大山祇神社が所蔵している国宝「沢潟威鎧」(おもだかおどしよろい)。袖や「錣」(しころ:首筋を覆う部分)に描かれた三角形の模様が、オモダカ科の水生植物「沢潟」(おもだか)に似ていることからこう呼ばれています。
オモダカ科の栽培品種(農業や園芸のために創られた品種)である「クワイ」は、その形状において芽が出ることを連想させることから、縁起物として好まれました。また、群生している沢潟の葉は、鏃(やじり)を並べたように見えることから、「勝ち草」として重宝され、多くの武家において家紋などにも取り入れられているのです。
大山祇神社の沢潟威鎧は、完全な形で遺されている物ではありませんが(残欠:一部分が欠けていて不完全なこと)、三手組糸を用いて垂直に縅していく(結び付けていく)手法は、古墳時代や奈良時代の挂甲と共通。大鎧が挂甲の延長線上に位置していることを表しています。
また、付属する兜は12枚の鉄板をつなぎ合わせて鉢(はち)を形成。この作りは、短甲や挂甲に付属する兜に見られる特徴でもありました。この点からも、古墳時代からの甲冑の進化を見て取れるのです。
沢潟威鎧は「延喜の鎧」(えんぎのよろい)と呼ばれ、大山祇神社の社伝においては延喜の治世(901~923年)に制作された物であるとされていますが、現代では「天慶の乱」(てんぎょうのらん)から「前九年の役」(ぜんくねんのえき)の間に制作されたというのが通説になっています。
「赤糸威鎧」(あかいとおどしよろい)は、平安時代末期に制作されました。そして、1191年(建久2年)に「畠山重忠」(はたけやましげただ)によって、武蔵国(現在の東京都青梅市)の「武蔵御嶽神社」(むさしみたけじんじゃ)に奉納されたと言われています。
畠山重忠は、鎌倉幕府の有力な御家人。1204年(元久元年)の「畠山重忠の乱」で討たれ、その生涯を閉じましたが、その清廉潔白な人柄から「坂東武士(関八州で活躍していた武士)の鑑」と称されました。
この鎧は、「小札」(こざね:革や鉄などを小さな板状にした物)を植物染料である「茜」(あかね)を用いて鮮やかな赤色に染めた絹糸でつなぎ合わせた物。現在ではこの方法による染色技法は廃れており、再現することが不可能になっているのです。兜を含め、制作当時のまま、残欠ではない形で現存している、最古の大鎧のひとつと言われています。
「小桜韋威鎧」(こざくらがわおどしよろい)は、山梨県甲州市にある「菅田天神社」(かんだんてんじんしゃ)に伝えられている武田家ゆかりの1領。この鎧は、敵の矢や日本刀などの攻撃を防ぐための楯が不要だと思わせるほどの重厚さを感じさせています。このことから、「楯無鎧」(たてなしのよろい)という異名を有しているのです。
小桜韋威鎧は、甲斐源氏の始祖「新羅三郎義光」(しんらさぶろうよしみつ=源義光)から武田家に伝えられ、日本初の「日章旗」と言われている「御旗」(みはた)と共に、武田家の家督(かとく:跡目を継ぐ者)の証として伝承されました。
1582年(天正10年)の武田家滅亡の直前に、「武田勝頼」(たけだかつより)は嫡男「武田信勝」(たけだのぶかつ)が元服を済ませていなかったことから、陣中にあったこの鎧を着せ、儀式を行なったあと父子で自刃。その後、鎧は家臣の手によって「向嶽寺」(こうがくじ)の庭に埋められましたが、後年「徳川家康」(とくがわいえやす)によって掘り起こされ、菅田天神社に納められたと言われています。
広島県にある「厳島神社」は、「平清盛」(たいらのきよもり)によって社殿が整備されるなど、平家から厚い信仰を受けた神社。そんな平家の「氏神」とでも言うべき神社に奉納されたのが、「紺糸威鎧」(こんいとおどしよろい)です。
平清盛の子「平重盛」(たいらのしげもり)によって奉納されたこの紺糸威鎧は、小札を結び付けていく威毛(おどしげ)に傷みがあるものの、欠けた部分は見られません。一見、派手さに欠けますが、格調高く精緻に制作されている点で、奉納者・平重盛の人柄が表れている1領だと言えます。
平重盛は、平家が隆盛を極めるきっかけとなった「保元の乱・平治の乱」において武功を挙げ、父・平清盛を盛り立てたのみならず、温厚・誠実な人柄で、武士はもちろん、貴族・朝廷からも厚い信頼を集めていました。武人としての能力に加えて抜群の人柄をも併せ持っていた平重盛に対しては、絶対的権力者だった平清盛も一目置いており、平家政権内で平清盛に対して意見することができるのは、平重盛しかいなかったとも言われていたのです。
自他共に認める平清盛の後継者・平重盛の人柄を垣間見られたのが、1177年(安元3年)に発覚した「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)らによる、平家打倒の陰謀「鹿ケ谷の陰謀」(ししがたにのいんぼう)が発覚したあとの振る舞いでした。後白河法皇と平清盛間の調整役を担ってきた平重盛は、後白河法皇に激怒し、対決も辞さない姿勢の平清盛に対して、涙ながらにこう訴えました。
「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」
上皇に忠誠を誓いたいと思うと、父・平清盛の意に反することになり、その結果として親孝行をすることができないし、反対に平清盛の意に沿おうとすれば、親孝行はできるが、上皇への忠誠を誓うことができない。こうしたジレンマを率直に表した一言によって、平清盛は矛を収めたのです。
「小桜韋黄返威鎧」(こざくらがわきかえしおどしよろい)は、広島県・厳島神社所蔵の大鎧。小札の幅が極端に広く、それをつなぐ威毛の幅も広く、胴も裾広がりに形作られた雄大な姿が特徴的な1領です。厳島神社の社伝では、「源為朝」(みなもとのためとも)所用だったと言われています。源為朝は身長2mを超える大男で、五人張の巨大な弓を武器としていた猛将でした。
現存する鎧は、敵の矢から心臓部分を守るための鳩尾板と、脇腹を守るための脇楯が欠損していますが、全体的な形状は、平安時代の大鎧の特徴を色濃く残している物。その豪壮なつくりは、巨体を誇る伝説的な猛将・源為朝の所用と伝えられるのも納得の1領と言えます。
「紺糸威鎧」を所蔵している愛媛県・大山祇神社は、国宝及び国の重要文化財に指定されている甲冑の約4割を収蔵している神社。武運長久を願う武士からの信仰を集めました。
この紺糸威鎧は、1185年(文治元年)の「源平合戦」において「源義経」(みなもとのよしつね)が総大将を務めた源氏に味方していた「河野通信」(こうのみちのぶ)が所用していた物。
河野通信は合戦後、戦勝御礼の意味を込めて奉納したと言われています。河野氏の武功を象徴する1領です。
河野通信が率いていた「河野水軍」は、源氏と平家の最終決戦となった「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)における勝利に大きく貢献しました。現地の潮の流れを完璧に予測してみせたことで、源氏が水軍力で勝る平家を下したのです。
この戦いにおいて源氏は、当初は逆流にさらされて劣勢を強いられましたが、河野水軍の予測通り、時間の経過と共に潮の流れが反転。これに乗じた源氏が一気に攻勢に転じ、逆転勝利したと言われています。
「赤韋威鎧」は、源氏と平氏の戦いにおいて、武将が実戦で着用していたと考えられ、その後、備中・赤木家に伝来した物。兜の眉庇(まびさし)などに、鎌倉時代に補修・改変されたと思われる跡が見られますが、全体としては、制作当初の姿をそのままに伝えていると言えます。
この鎧は、大型の三ツ目札(3枚重ねに補強した小札)を用い、草摺を前後4段、左右5段で構成した上で、前面を2つに分けていない点などにおいて、平安時代後期の大鎧の特徴を有しているのです。
この大鎧の大きな特色は、胴や胸板(前胴の最上部にある金具)部分に残る刀傷と見られる傷跡。神社などに奉納することを目的として制作され、社宝として保管されてきた鎧は、実戦において使用されていないのはもちろん、美観維持のために大幅な補修がなされていますが、この赤韋威鎧は、近世以降において大幅な補修が施されることなく、制作時の状況をほぼ残している点においても貴重な1領と言えるのです。現在は、「岡山県立博物館」が所蔵しています。
鎌倉時代に入ると、大鎧の胴に変化が見られるようになりました。
前期においては、それまで裾に向かって広がっていた胴の幅が上下同じに。この背景には、日本初の本格的な武家政権である鎌倉幕府成立後も、地方における戦乱が収まらなかったことにあります。
その結果、戦闘方法も馬上での弓矢による一騎打ちから、日本刀での斬り合いに変化。これに伴い、馬上での動きやすさが一層重視され、腰周辺を絞る形状にするなど胴にも変化が現れます。25kgはあると言われている大鎧の重量を肩だけで支えるのではなく、腰の部分でも支えることで、着用者が長時間、馬上で動きやすくしたのです。また、鉄板に絵韋(えがわ)を貼り付けた脇板で左脇の下をカバーすることで隙間をなくし、さらに守りを固めました。
愛媛県・大山祇神社所蔵の国宝「紫綾威鎧」(むらさきあやおどしよろい)は、小札を「綾」(あや:麻を芯にしてたたんだ絹の織物)で縅した大鎧。「源頼朝」(みなもとのよりとも)によって奉納されたと伝えられる物です。綾で縅した大鎧は、厳島神社所蔵の「浅葱綾威鎧」(あさぎあやおどしよろい)や、大山祇神社所蔵の「萌葱綾褄取威鎧」(もえぎあやつまどりおどしよろい)などが現存していますが、数が少なく、貴重な1領だと言えます。
鎌倉時代中期には、さらに馬上での動きやすさが追求された結果、胴の裾はより絞られ、これに伴って小札や威糸(おどしいと)の幅も狭くなりました。
また、この時代の大鎧の特徴として挙げられるのは、金工技術を駆使した金物装飾を施し、神社に奉納した物が多数あること。これらは、実戦で使用されることはありませんでしたが、大鎧制作技術と共に、当時の金工技術の高さを示している物だと言えるのです。
国宝・赤糸威鎧(菊金物)(きくかなもの)は、大袖には籬(まがき)に八重菊を象った金具の上に「一」の字の飾金物(かざりかなもの)が施されているため、「菊一文字の鎧」と呼ばれています。また、兜にも同様に菊一文字の飾金物があることから、「菊一文字の兜」の異名を持っているのです。
鎧の形状は、典型的な鎌倉後期における大鎧の特徴を有する物。これに、余すところがないような形で装飾されている菊籬(きくがき)を模した金物に見る精巧な透かし彫りは、鎌倉時代における金工芸術の特色をよく表しているのです。この赤糸威鎧(菊金物)は、現存する大鎧における装飾金物の絢爛豪華さという点で、「春日大社」所蔵の赤糸威鎧「竹雀虎金物」(たけすずめとらかなもの)と並び称される逸品。
国宝・赤糸威鎧(梅鶯金物)(うめうぐいすかなもの)は、奈良県・春日大社所蔵の鎌倉時代後期の大鎧。梅の枝に止まった蝶や鶯を基本として、クモやみの虫などの身近にいる昆虫なども立体的に透かし彫りにされています。
兜の正面には、玉眼(ぎょくがん:仏像などの目をより本物らしくみせるために水晶の板をはめ込む技法)が入っている獅子の頭部をかたどった鍬形台が装備され、そこから鳥の羽根のような模様が彫られた鍬形が上に向かって高々と伸びているのです。
春日大社には、武運長久を願う武士達が日本刀や甲冑などの武具を納めてきた歴史があります。この赤糸威鎧(梅鶯金物)は、鎌倉時代後期における、最高レベルの彫金技術が結集して作られていますが、重量や各部の可動性の点で矢が飛び交う戦場での使用には不向き。そのため、神社への奉納を目的として制作された物であるとも考えられているのです。
奈良県・春日大社所蔵の国宝・赤糸威鎧(竹雀虎金物)は、鮮やかな赤い威毛と精巧な金物が印象的な大鎧。
兜には竹と雀を基調とした飾金物が施され、大袖には大きな虎の金物が添えられています。
また、兜前面の鍬形は長さ48.5cmで、上端の幅は21cmの特大サイズ。社伝では源義経によって奉納されたとされていますが、制作様式などを鑑みると、鎌倉時代後期の作と推定されています。
この赤糸威鎧(竹雀虎金物)も上記2つの赤糸威鎧と同様に、札に多くの装飾用金物を用い、大袖にも竹と虎の金物を配して重量が大きく、柔軟性にも欠けていることから、実用ではなく、奉納用として作られた1領であると言われているのです。
島根県出雲市にある「日御碕神社」(ひのみさきじんじゃ)所蔵の国宝「白糸威鎧」(しろいとおどしよろい)は、弦走(つるばしり:胴の正面部分)の革に「不動明王二童子像文」(不動明王が[矜羯羅童子:こんがらどうじ]と[制吒迦童子:せいたかどうじ]を両脇に従えた三尊の形式)が染められており、現存する大鎧でも格調の高い鎧と言えます。
江戸時代には、源頼朝奉納の甲冑として知られていましたが、幕末期の1805年(文化2年)、威糸などが傷んでいたため、当時の松江藩藩主「松平治郷」(まつだいらはるさと)の命によって修復作業が行なわれました。
特筆すべきは、その修理方法。江戸時代から明治時代にかけての修復では、適切であるとは言い難い修復が度々行なわれていましたが、この白糸威鎧の修復においては、破損した部分の修繕に用いられた白韋(しろかわ)には、「文化二年修補」の文字が染め抜かれ、修復の際に取り換えられた威糸や紐などの残欠類は、別に保管されるなど、細やかな心配りがなされました。
さらには、修理を行なった「寺本安宅」によって61ヵ条にのぼる修理記録である「源頼朝卿御鎧修補註文」が記されています。現品を損なわないようにしつつ、修復した部分・残欠類がはっきりと分かるようにした修復によって、白糸威鎧は、美術的価値はもちろん、歴史資料的価値も多分に有している1領だと言えるのです。
広島県・厳島神社所蔵の国宝である浅葱綾威鎧は、数ある大鎧の中でも繊細な美しさと勇壮さを感じさせる1領で、威毛に浅葱色(薄い藍色)の綾を用いることで、鮮やかさと共に清々しさを演出。これと銀メッキを施した金物の色と対比することによって、高貴で勇壮な様が表現されています。
この浅葱綾威鎧は、鉄と革の小札を交互に綴じ合わせ、裾に向かって絞っていく形状の胴に7段の大袖などを備えた重厚な造りとなっており、まさに大鎧らしい大鎧だと言えるのです。
青森県八戸市にある櫛引八幡宮所蔵の国宝「白糸威褄取鎧」(しろいとおどしつまどりよろい)は、南北朝時代を代表する大鎧。白糸を卯の花に見立てて「卯の花威」(うのはなおどし)とも呼ばれていました。
外側から紅糸、萌黄糸、黄糸、薄紫糸、紫糸の順で褄取り(つまどり:袖や草摺の端を斜めに地糸とは異なる色でおどすこと)を施したことで、地糸である白糸の威毛を一段と引き立たせています。
現在残っている褄取部分は後年に補修された物ですが、均整が取れた全体の形状もあいまって、制作当時の気品に満ちた様子を偲ばせる1領です。
この大鎧は、1367年(正平22年)に南朝の武将として活躍した「南部信光」(なんぶのぶみつ)が、甲斐国(現在の山梨県)を平定した褒賞として「後村上天皇」(ごむらかみてんのう)から与えられたと言われている物。その後、南部信光の子「南部光経」(なんぶみつつね)が1411年(応永18年)の「秋田合戦」の出陣時に櫛引八幡宮に戦勝祈願を行ない、勝利を収めたお礼として奉納しました。
南北朝時代まで甲冑の主流を占めていた大鎧ですが、室町時代に入ると衰退していきます。
伝統を重んじる一部の武士を除き、主流となっていたのは、胴丸・腹巻といった合理性重視の甲冑。戦場で軽快に動くことを目的として、丈を短くするために胴丸・腹巻の札は短くするなどの工夫が施されました。これに倣って、この時代に制作された大鎧の丈も短縮されるなど、実戦使用のための工夫がなされましたが、室町時代末期になると、武士が大鎧を実戦で着用することは皆無に。
以後、大鎧の役割は、実戦での防御用から祭祀用へと変化していったのです。
広島県・厳島神社所蔵の国指定の重要文化財「藍韋肩赤威鎧」(あいかわかたあかおどしよろい)は、兜の鉢裏に「和州南都住春太光信作」(わしゅうなんとじゅうはるたみつのぶさく)の銘が切られています。作者は奈良の甲冑師「春田光信」(はるたみつのぶ)。春田光信は、室町時代中期に発足したと言われている甲冑師集団「春田派」を代表する甲冑師のひとりです。
寄進状によると、この鎧は1542年(天文11年)に周防、長門など6ヵ国を治めていた戦国大名「大内義隆」(おおうちよしたか)が奉納した物。室町時代末期の作品であると推定されており、厳島神社に奉納するために、名工として名を馳せていた「奈良甲冑師」に注文した物だと考えられます。
戦国時代の名残があった江戸時代の初期においては、実戦での使用を想定した合理性重視の「当世具足」(とうせいぐそく)が制作されました。
しかし、大規模な戦乱は1637年(寛永14年)に勃発した「島原の乱」が最後。太平の世になると、甲冑も実用性重視ではなく、飾った場合の見栄えが重視され、不要な部品等が装着されるようになりました。そのような時代背景で登場したのが復古調の大鎧です。これらは古式の大鎧形式を忠実に踏襲した物ではなく、大鎧の要素を取り入れた当世具足とでも言うべき物でした。
江戸時代末期になると、銃をはじめとする火器の著しい進歩によって、防具としての効用が薄れた当世具足をはじめとした「日本式甲冑」は、それ自体が防具として時代遅れに。このような時代背景もあり、大鎧は装飾的な武具(=美術品)という意味合いが一層色濃くなります。
平安時代に登場し、室町時代中期あたりまで実戦で使用された大鎧は、戦い方の変化と共に形式を変化させました。
そして江戸時代になると、鑑賞用として復古調の大鎧が登場。このような大鎧形式の変遷という視点から、復古調の大鎧は、大鎧の「最終形」と位置付けることも可能なのです。